4層構造による性格論(6)

 

引き続き狭義の性格(人格)が形成される要因となる、乳幼児期の発達心理の研究緒論。


マイケル・バリント(フロイト派)

フロイト派の精神分析家バリントは、多くの治療を行う中で、フロイトの精神分析技法では改善しないどころか、なぜか病的な退行(現在の状態より以前の状態、あるいはより未発達な段階へと逆戻りする)を引き起こしてしまう症例をいくつか経験します。つまり、従来の精神分析ではまったく対応しきれない、重大な精神病理の存在を知るわけです。

その症例では、成人であっても自我が脆弱で、問題と向かい合って葛藤をすることができない。また、他者との対等な関係が結べず、特定な相手との依存的な二者関係に陥いってゆく。したがって、古典的精神分析技法による解釈が可能なほどの自我を形成できておらず、「エディプス水準(神経症)」に達していないと見なしました。

この原因を、人生の最早期における養育者(母親)と子ども間の不十分な養育上の問題からくるものとし、「基底欠損 basic fault」と名付け、「基底欠損領域」という概念を想定し、この領域において言葉は本来の伝達手段となりえないとしました。


ドナルド・ウィニコット(小児科医・精神分析家)

ウィ ニコットは、フロイトのリビドー発達論に基ずく性格の発達段階説には懐疑的でした。リビドー発達論が対象関係の存在しない個人の充足欲求を基盤としている のに対し、ウィニコットは母親と子どもの関係性を抜きにして、乳児期における精神発達を考えることはできないとしたからです。

小児科医と しての豊富な臨床経験によって、子どもが情緒や行動面で問題をもっている場合、その子どもが乳児の頃から情緒的発達に問題を抱えていることに気づきます。 その乳児たちは様々な理由によって、生まれた直後から母親のケアや愛情を注がれていなかったことが分かります。

ウィニコットは、母親が赤ちゃんと一体化した熱中状態を原初的母性的没頭 (primary maternal preoccupation)と呼びます。妊娠から出産、出産後の数週間において、文字通り母親が我が子へ夢中になって全身的に関わることです。

なぜ母親は「原初的母性的没頭」状態となるのか?

生まれたばかりの乳児は絶対的な依存状態にあります。乳児の肉体的、生理的、心理的な欲求に母親が答えてくれなければ、子どもは「絶滅の脅威にさらされる」とウィニコットは述べています。そのためには母親が、乳児の心理的欲求をも含めた全ニーズを受けとめる感受性をもたなければならない。そのために、乳児だけに向けられる鋭敏な感受性と集中力「原初的母性的没頭」が必要になるというのです。

さらにウィルコットは、乳児は自分の欲求を以心伝心で満たしてくれる母親の原初的母性的没頭によって、はじめて自分の存在を、連続性をもった確かなものとして感じられるようになると考えました。

逆に何らかの理由によって、母親が乳児の欲求に何も応えてくれない状態が続くと、自我の連続性の発達は損なわれ、自己を防衛する働きが生まれるとします。その防御によって「本物の自己」とは別の「偽りの自己」へ分裂を起こすと考えました。

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バリントの「基底欠損 」やウィニコットの「偽りの自己」の 状態は、「狭義の性格(人格)」を形成する上で重いパーソナリティ障害の要因のひとつになることが示唆されています。とはいっても、生まれつきの遺伝的要 因、その後の生活環境等の相互作用によって影響の表れ方は千差万別、ひとりひとり異なるということを忘れてはなりません。

以上のように、人生の最早期における子どもと養育者(母親)との関係は、自我の基盤をつくり、狭義の性格(人格)の形成にも大きな影響を及ぼすことがわかっています。

けれども、これはあくまでも現段階での「4層構造による性格論」なんですね。事実の一側面であって、絶対的判断基準ではないのです。

心理学は一義的なものではありません。現在も実験心理学や行動心理学など、限りなく科学的であろうとしてはいますが、常にそれだけではカバーしきれない領域 を持つ世界です。扱う対象が、「見える部分(行動・生理的反応)」と「見えない部分(思考・感情)」を併せ持っている「心」だからです。

過去を振り返って、乳幼児期に不十分な生育歴をもっているから・・・なんてことに囚われない方がよいのです。完全な育児なんていうものは存在しませんし、私は完全な養育歴だったワ・・なんていう人も存在しないでしょう。

前 にも記した通り「狭義の性格は大人になってからはほとんど変わらない」とされています。けれども私見ですが、たとえ乳幼児期に充分な親の愛情とケアを受け ることができなかったとしても、幼年期~少年期~青年期~成人期、どの段階であっても、人とのあいだに愛情に満ちた豊かな関わりを持つことができたなら、 「狭義の性格」の領域を含めて、性格の変容は十分に可能であると考えています。


次回からは「習慣的性格」についてです。「性格は変えることができる」という場合、この第3層目の「習慣的性格」を指します。(つづく)