折衷主義のカウンセリング理論(1)

カウンセリング理論というのは学問であって、パーソナリティの表現であるカウンセリングの実践とは異なる。したがって、心理カウンセラーはリサーチャー(研究者)と臨床家の二面性によって成り立っている。

これまで大学や各種講習会・セミナーで学んできたカウンセリングの理論・技法について、リサーチャーの立場からいちど大雑把にまとめたいと思っていた。私はロジャーズの自己理論、認知療法、論理療法をベースとした折衷主義に立っているが、その立場から、学んだ範囲での代表的各学派や新規の技法を通して、自分なりのカウンセリング理論を考えてみたい。不定期で連載予定。

<折衷主義>
私の「折衷主義(eclecticism)」は、アレン・E・アイビィの提唱した積極技法(influencing skills)の『マイクロ・カウンセリング』に影響を受けている。マイクロ・カウンセリングの理論は、日本にはアメリカ本国より20年ほど遅れて1980年代に入ってきた。

簡単にいうと「クライエントを援助するためならば、既存の各カウンセリング理論から活用できるものは何でも使う」というスタンスによってカウンセリングを行うこと。

折衷主義をとる根拠の第一は、カウンセラーの倫理観があげられる。「クライエントにとって何が適切か」を考えずに「自分の論理では何ができるか」を優先するのは、クライエント中心ではなく理論中心である、という考え方。

たとえば、PTSDに苦しむ東日本大震災の遺児に、自分の専門だからと認知行動療法の持続的暴露療法(PE)を用いたり、うつで強い自己不全感に陥っている方にゲシュタルト療法を用いるのは、副作用が強くかえって逆効果になるケースが多い。テレビでタレント相手に某カウンセラーが行っているのはゲシュタルト技法の一つだが、相手が元気いっぱいの健康人だからパフォーマンスとして成り立っている。

また、クライエントの「トイレに行きたいんです 」の訴えに、「そうですか、あなたはトイレに行きたいんですね・・」、「どこにありますか?」「あなたはトイレがどこにあるかを知りたいんですね・・」とロジャーズの来談者中心療法の受容と共感に努めるよりは、「廊下の突き当たりにあるから行ってらっしゃい」と答えた方がよい結果を生む場合もある。

根拠の第二は、世の中は時代とともに社会的・文化的に変化し続けている。それに伴って、その時代その場所に生きる人々の心的悩みも多様に変化してきている。それに対応するには、ある時代ある文化で通用していた理論を、全く異なる時代や文化にあてはめようとしても無理がある。

フロイトが治療の対象にしたのはヒステリー(神経症)に悩んでいた富裕層の女性が多かったが、そうしたクライエントには精神分析の手法が効果をあげた。だからといって、現代の不登校の子どもに精神分析一本やりで洞察を求めても、おそらく何年たっても解決には至らないだろう。

といったわけで、多様化した心的悩みに応えるためには、カウンセラーは多種多様な理論を広く学びながら、それを自分なりに統合していく必要がある。多様な心的問題のひとつひとつにもっともフィットする理論を、そのつど臨機応変に選択して実践するという方法が解決への最短の道、と考えるのが折衷主義である。そのフィットする理論も、現代においてはひとつとは限らない。(つづく)