愛するより愛されたい ?

 

恋愛・・・

 

人生最大の喜びであり、苦しみであるかもしれません。

 

めくるめくような物狂おしい思いを抱き、悶々と一夜を明かす・・・いいですねえ。

 

裏でデオキシリボ核酸が糸を引いていようとも。ヾ(ーー )ォィ

 

(注:以下のお話、ストーカー等の特殊ケースは除外)

 

ところで、恋愛においては相思相愛が理想ですが、お互いの相手に向ける情熱(エネルギー)が同一ではなく、どちらか一方が勝っている場合も多々あるようです。

それが顕著になると、惚れている側と惚れられている側、という構造に至ります。

 

そこでよく耳にするのが、

 

「愛するより愛されたい」という願望。もしくは目標。

 

数年前どこぞのポータルサイトで20代の男女を対象に「あなたは愛したい派?愛されたい派?」というアンケート調査を行った結果、愛したい派30%、愛されたい派70%であったとか。(まあ、その二者択一の質問も安易ですが)

 

自分が相手に夢中になるより相手が自分に夢中である方が、じゃんけんで勝ったようなお得感があるらしい。

 

「ワタシって(オレって)めちゃくちゃ愛されているーン♪」という認識がもたらすものは、多幸感は勿論のこと、優越であり、余裕であり、それに付随して満たされる支配欲、といったところでしょうか。

 

自分に惚れさせた上で、様々なテスト(試し)やゲームを仕掛け、相手を翻弄しまくる方をたまにお見受けしますが、それはまた別の心理的背景があるので、次の機会に解説する予定。

 

といったわけで、愛するより愛される方が幸せ♪と思いがちなのですが・・・

 

さにあらず。

 

「愛したい派」つまり自分が相手を愛している・惚れている側の方が、実は圧倒的優位に立てるのです。惚れてる弱みは、惚れてる強みでもあるということ。

 

何故か。

 

「愛されている側」は絶対的な前提条件が必要なのですね。

つまり、相手に愛されていなくては成立しない。相手次第の状況設定。

 

一方「愛している側」は前提条件無し。

自分が愛するか、愛さないかのどちらか。自分次第の状況設定。

 

したがって「愛されている側」の桃源郷も、相手が「あれ?もう愛してないや」となった時点で終了。ゲームオーバー。

 

そのときになって慌てて「愛しているから捨てないで!」と追いすがっても、恋心が完全消失した後、同じ人間に恋愛感情が再燃することは、確立としてほぼ0%。

 

たとえ破局を迎えても、後悔のないのはどちらでしょう。

 

「惚れるが勝ち」もしくは「惚れるが価値」なのです。

 

恋愛状態というのは、「理性・人間性を司る中枢」であるはずの前頭前野内側部が不活性化されている状態でもあります。つまり、恋人を獲得する為に一時的にタガを外し、冷静な判断を放棄して情熱的な行動に走りやすくなるわけです。

 

しかし生存競争上の戦略として、特定の個人に、執拗に、持続的に、強迫的に向けられる情熱は、個人差はあれど、いずれ必ず終焉のときがやってきます。

 

お互いに惜しみなく愛情を注ぎ合ってこそ、恋愛を永続的「愛」ヘと昇華できるのではないでしょうか。

 

ということで、上手く?まとまったようです。